大島由加里63444

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大島渚監督写真 大島 僕は『部屋』を見て大変うれしかったんですね。

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対談
大島渚×園子温


ある老いた殺し屋(麿赤児)が自分にふさわしい部屋を探して不動産の女事務員(洞口依子)と東京を歩き回るという物語。単純な筋立てを白黒、超長廻しのスタイルで描いた問題作である。今回、園監督と、彼の作品をずっと見守ってきた大島渚監督との対談を企画、2人のお話は新作のみならず、映画作り全般に広く及んだ。


大島渚監督写真 大島 僕は『部屋』を見て大変うれしかったんですね。これまでの園さんの映画にはいつもスタイルへの模索があったと思う。あるスタイルが頭の中にあって、それを壊そうという形で、いわばスタイルを壊すスタイル。それが物凄いエネルギーになっていた。それが今度の映画を見て、園さんがやりたいと思っているスタイルと今度獲得した35ミリという表現手段、これがピタッと明確な形で総合して作品としての力を持ったのではないかと思ったんですよね。
 もう一つは8ミリや16ミリには有利さがある反面、限界もあって、今まではその限界に作者が苛立っていたところがあったような気がする。今回はそれらがすべて影を潜めて、ある意味では明解で、しかも明快であるが故に、逆に奥深い表現に達したのではないか。より深いインパクトを見る人間に与えるのではないかと思いました。
 園さんは詩を書いていたんでしょう。どうして映画を撮るようになったわけ?

 僕は十代の終わり頃から現代詩を書いて、19の頃から「現代詩手帖」や「ユリイカ」に発表していました。その頃から現代詩にしろ短歌にしろ俳句にしろ、非常に様式化した退屈な物になったんです。60年代くらいには寺山修司などが切り開いてきた新しい方法論がありましたが、その頃はあんな物はなかったかのような、保守的な傾向に戻りつつあって、ちょっと僕は息苦しかったですね。どんなに殴り書きしても、丁寧に書いても活字になってしまう詩というものもつまらなかった。肉体的な動きが表現できないかと思ったときに8ミリを手にしたんです。それまでも映画は見ていましたけど、映画を撮るという意志は全然なかったんですよ。詩から自然発生的に映画の方にいったということですね。

大島 寺山修司らがやったものがあって、その後の時代に出発点があったということね。これは僕らから見ると面白いね。恐らく僕なんかも大島渚というのがいた(笑)となる。それと、自然発生的に8ミリを取り出したというもの面白いんだけど、ぴあフィルムフェスティバルの沢山の作品の中では、園さんの持つ特殊性が、僕がつけた言葉でいうとバンダリズム一般に紛れ込んでしまった。「部屋」でそうではない園子温が確立したと思うんですね。そして、あなたが詩人であるのもよく分かった。

 御本人を前にして気恥ずかしい気もするんですが、「部屋」を撮る直前に考えたのは、日本映画で 35ミリを撮るときの勇気を僕がどこで得るかというと、大島監督だということ。日本映画の中に大島監督のフィルムがあるということで、いつも勇気をいただいている感じがある。

大島 その勇気というのは非常に大事なことで、僕は映画を作るときに、いろいろな映画を見て、映画の辺境をどれぐらい広げているかということをいつも思うんですね。映画の可能性というのは大きいのに、みんなちぢこもって、映画の中へ中へ寄り集まってる。僕の好きな森崎和江の言葉で言えば、芋を煮っ転がしたように固まってるだけなんだね。誰かが勇気を出して、映画の辺境を広げないと何ひとつ始まらない。ところがいま特に日本映画が、映画の辺境を広げる力がないんですよ。これはいくらスローガンを掲げたり、「日本映画は面白い」と言ってみたってね、駄目なんだな。具体的にキャメラを持って、撮ろうという時に、広げていかないとね。その点で、「部屋」を撮る時にその力を持っていたのは凄いことだという気がするね。でも、これまでの園さんの作品を見てきた連中にはびっくりした人もいるんじゃない?

 いますね。裏切られたという人も多い。今までは僕のナイーヴさが愛されたといいますか。「部屋」は人を突き放す感じもあるのかな。ですから今まで見てくれた人たちからは「全然園らしくない」みたいな言われ方をします。ですが、これはひとつの出発点ですから、ゆっくり分かっていただければそれで問題はないし、これは現時点での紛れもない園子温の作品だと、自分としては確信しております。

大島 シナリオを書いたときから確信はあったわけですね。

 はい。電車のシーンは、シナリオでいえば「電車で二人が立っている」という1ページだけなんです。それが5分だとか10分になるとスタッフに言うわけです。すると、撮ってみないと分からない世界ですけど、みんなおもしろがる。

大島 みんなが「撮ってみないと分からない」と言うの?(笑)

 僕も少しはその気もありましたね。撮ってみないとわからないですけど、面白そうだという。それが一番エネルギーになったりしますから。最近の僕の周りの人間というのは、映画を撮るときに「いい映画」を撮りたいという意識があるわけですよ。どうもその「いい映画」という言葉にひっかかるのは、その人が「いい映画」と言った時に、過去に本当に自分が撮りたい「いい映画」というのがあった。そんな「いい映画」なんて撮らなくていいんじゃないか、愛されたいとか、いい映画を撮りたいとかいう意識を全部かなぐり捨てて自分を撮ってみなきゃ分からないようなところの境界線を行かないと面白くないと感じましたね。

大島 しかしねえ、撮ってみないとわからないところまで思いつめて、自分を過激に追い込んでいく力はなかなか持てるもんじゃないんだね。自分を追い込むことが物を作る一番の作業だと思うんだけど、やはり一番難しいのはそこなんだね。この辺でいいだろう、とどこかで高をくくってしまうんですよね。よくあそこまで追い込みましたよ。お金だってそれこそ大変だったんでしょ。

 大変でした(笑)

大島 簡単に言うけど(笑)

 大変といえば大変でしたけど、これはロー・バジェットを超えてノー・バジェットの映画ですから。お金がないところから逆算された映画と言われたらそうかもしれませんけど。

大島 原則的には、ロー・バジェットのほうが過激さというか、作家の思いが出ることは確かなんだよね。大概の監督はある程度予算が増えると全く無個性になってしまう。その意味では何十億使ってもなおかつ個性が出るというのは一番凄いんだけど、なかなかそうはなれない。しかし、中にはロー・バジェットでも「いい映画」を作りたくなってしまう人がいる。逆にロー・バジェットを自分が過激になるよすがにする戦術は必要なんだよね。やはり無策では辺境を広げる映画はできないんで、大変な戦略、戦術を必要とするんだと思うんですよね。僕は今度は戦略も戦術もピタッとうまくいったと思うんだな。

東京ガガガで90年代のアンカーに
園子温写真
大島 前作と引き続いて参加したスタッフもいるんですか。

 それは全くいません。

大島 そのへんも思い切ったんだね、随分。どういうふうにして集めたスタッフなんですか。

 もっと若くなって、キャメラマンも含めて25歳前後の人間ですね。白黒の画面ですと、熟練のスタッフに囲まれてやったように思われるかもしれませんけど、こういうことを面白いとついてきてくれる人は非常に若い年齢層だということですね。冒険したい、今までと違う日本映画をやりたいという気持ちで集まったんで、非常にリラックスした、全く調和のとれたいいスタッフになりました。

大島 じゃあ、みんなあなたの意向とか分かった人たち。素晴らしかったねえ。

 逆に僕が保守的な考えになって、あれ、それは今までと違うじゃないかと言うほど果敢に挑戦的になってくれた。

大島 例えばキャメラマンは普段はほかの映像の仕事をしている人なんですか。

 CMを撮っていて、いつかは映画のキャメラのほうにいきたいという気持ちがある。ただ最近の日本映画の風潮の中ではどうしても自分が入っていく余地がない。そういう人が今回のスタッフには割と多かったですよ。商業ベースの語り口では馴染めない、入っていけない。そうした憤った中で、それでも映画をやりたいと思っているスタッフが、自然に集まってきたんですね。

大島 彼らとしては今の普通の商業的な日本映画なんか作りたくない。あなたの提案で、これが自分たちの作りたいと思っていたものだ、ということがあったのかなあ。なんかそんな感じがする。

 ここからだったら映画に入っていけるという気持ちで来てくれたと思うんです。それは凄く爽やかでしたね。

大島 それはハッピーな出会いでしたね。

 今回のスタッフではこれからも何本か作っていきたい。いま、「部屋」を一緒に作ったスタッフと「東京ガガガ」というパフォーマンスをやってるんですよ。渋谷や新宿の街で、沢山の大小の旗に詩を書いて、メガホンを持って詩を叫ぶ。50人ぐらいで更新して、警察には「新しい全学連が現れたと」と思われてるんだけど。

大島 これは面白そうだ。力があるね。

 最近は警察から「デモ申請してくれ」と言われて、申請をしますけれども、申請書に「テーマ、趣旨、思想に関して」という項目があって、特にないから「詩を歌う」と書く。これじゃあ申請をどうやって取らせようか警察も困っちゃってる。

大島 デモ申請にはそういう目的を書かせるわけ?

 「思想がないと困ります」と言われて(笑)

大島 そりゃいいね。警察に「思想がないと困る」と言われるなんて最高にいいね(笑)。犯罪が起こるとね、警察はまず動機を知りたがるわけですよ。それからテレビを始めとするマスコミも同じ。動機を聞けば安心するんですよ。「ああそうか、こいつはこういう奴か。だからやったんだ」と。動機の分からない犯罪というのは非常に不気味なんですよ。僕に言わせれば犯罪者なんて動機が分からないからやるんであって、動機があったら犯罪なんてやりませんよ。僕が映画で犯罪を取り上げてきたのは、そこであってね、「俺はこういう理由で人を殺すんだ」なんて分かってたら人を殺せないですよ。動機が分からないから、一番怖い。
映画は動機が分からない存在としてある時に、世の中に一番強いんですよ。園君は今日は若干は説明してくれたけどね、やっぱり根本的なところでは彼の動機は分からないわけ、われわれにはね(笑)。そこが不気味なんで、その不気味さがやっぱり人々に突き刺さるんだと思うんだよね。ですから、警察に「思想を教えてくれ」と言われるのはいいんじゃないかなあ。非常にいい話ですよね。

---映画のスタッフと一緒にやるというのは凄いですね。「東京ガガガ」はドキュメンタリーでも撮ってるんですって?

 記録として16ミリで撮っています。これは僕にとっての一種60年代的な映画になるんじゃないですかね。変な言い方ですけど、90年代というのは60年代とシックスナインできるというのが僕のひとつのキー・ワードになってるんですけど、僕は90年代はもう一回アンダーグラウンドというか、オーバー・グラウンドという言い方をするかもしれないんですけど、それが可能じゃないかと思ってるんですよ。だからどこかでもう一度前衛的な表現のアンカーになれるんじゃないかという気がしてるんですけどね。

大島 そうか。シックスナインができるんだ。そうすると96年あたりが…。96年は映画百一年なんだよね。

---映画が二世紀目を迎えるということですね。

(1993年9月2日 司会/構成=西田宣善 キネマ旬報 93年11月号より)


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大島由加里是女主角(林小樓則是男主角XD),這是少數她以美女 ...

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2010年8月14日星期六

日本人系列(完)



年份:1988年
監製:周國忠
導演:李作楠
編劇:張信義
演員:林小樓、大島由加里、常山、汪強、林雨潔…


靈幻家族、靈幻祖師、靈幻至尊、靈幻先生、靈幻小姐、靈幻少女、靈幻童子…,「靈幻╳╳」果然是術士、殭屍片最芭樂的片名,連我最喜歡的《人嚇人》在日本的名字都叫《靈幻師弟》。

這個Blog好久沒有出現國片了,最後這篇與其說寫日本元素,更想首次提及八十年代中至九十年代初這段期間,台灣本地所流行開拍的術士片和神怪片,這類電影可說是台灣外銷日本最成功的一種。稍早那篇提到,1986年的台灣掀起殭屍熱,本地完成的第一部殭屍片《殭屍小子》創佳績,拍了六部續集(詳情),這系列還成功打入日本市場,和《殭屍先生》系列平分秋色。但台灣的殭屍熱僅燒了一兩年,便因作品太多、彈性疲乏而退燒,取而代之主打兒童市場的是題材類似的神怪電影,1987年由林小樓主演的《新桃太郎》便是代表作,《新桃太郎》是用台式手法演繹日本童話,亦曾外銷日本。

台灣本地殭屍熱退燒,但在日本,殭屍熱方興未艾,日本出現了殭屍故事書、漫畫、電玩和玩具,甚至日本的幼稚園和小學教兒童玩類似「殭屍跳」的遊戲運動——這也可以看出兩地對題材的接受完全不同,台灣有關單位對殭屍是避之唯恐不及,每每搬出「戕害兒童身心」的大帽子強扣,在台灣《殭屍小子》遭禁映後才以「限制級」過關,但在日本卻可以在電視台播放,闔家觀賞,坊間也以開放的態度看待,這才叫寓教於樂。

殭屍片流行,日本片商大舉來台採買殭屍片,卻發現此時台灣已不拍殭屍,於是也將腦筋動到正開拍的神怪電影上面,1988年的《靈幻童子》並屬此例,「靈」片原本不涉及殭屍題材,但在日本片商捧著銀子要求下,加入了殭屍的橋段。


↑《靈幻童子》在日本的VHS封面,片中只佔小段篇幅的殭屍成了封面上的主角。

《靈幻童子》有殭屍的戲份,但和一般印象中的「殭屍片」有很大的不同,若要將《靈幻童子》歸類成某個類型片,我覺得差不多介於神怪片和神怪武俠片之間,說神怪片會比較概略,但我覺得不夠準確,我更想說它是「神怪武俠片」,雖然它的手法和賣點亦不在武俠方面。

「神怪武俠片」是中國武俠片史上發展極早的片種,最早的武俠片概念來自於「傳奇」,「傳奇」裡出現神魔仙怪並不出奇,二、三十年代最具代表性的武俠片《火燒紅蓮寺》系列,就有不少神怪情節,在五十年代大中華電影重心從上海南移至香港之後,初期神怪武俠片仍占大宗,但隨後「黃飛鴻」等片集興起,「俠義」情節成主軸,再到六、七十年代則越來越重武打,武俠片中出現神怪元素者越來越少,反倒是台灣的武俠片較常出現神怪元素。七十年代是台灣武俠電影的量產年代,1971年到1977年之間,就有五百多部的產量,產量雖多,但習於跟風,在國際上的聲望遠不及香港武俠片。

《靈幻童子》的導演李作楠和編劇張信義,都是七十年代在台灣拍武俠片出身的,表現在這部主打靈幻神怪的《靈幻童子》上,其中無論拍攝手法或場面,甚至人物和劇情部分,都有一種舊武俠片的氣息,這點和《新桃太郎》等純粹神怪片很不一樣,雖然八十年代武俠電影已沒落,但武俠電視劇仍很多,而《靈幻童子》大部分篇幅,就我自己觀看的感覺是和八十年代的神怪武俠電視劇很像。



日本人系列的最後一篇,該「在華人地區發展的日本演員」出場,港台兩地的電影圈裡,長期發展的日本演員多半是動作明星,最著名的應屬倉田保昭和大島由加里(大島ゆかり,也常音譯為大島由加利),倉田保昭自七十年代已參與過大量香港動作電影,直到近年仍演過《新宿事件》等港片,而大島由加里是倉田保昭的再傳弟子,由倉田保昭引薦到香港拍片,首部電影是嘉禾的大堆頭片《富貴列車》。

「富」片之後,大島被新藝城相中簽約,並介紹她到台灣拍攝新藝城的合作對象龍祥的電影,因此大島由加里第一部戲份較重的電影,就是台灣片《歡樂龍虎榜》,往後十餘年大島曾多次來台拍片,相比多數拍港片的倉田保昭,大島可謂空中飛人,除了台灣還曾在菲律賓發展。大島由加里是空手道冠軍,學過柔道、體操和綜合武術,和多數舞蹈底的香港動作女星相比,武打身手更紮實硬淨,屬於具有力量的硬派女打星,《靈幻童子》中她與國光藝校出身的林小樓同台,她亦負責較多的實打,有許多俐落的踢腿動作。

有關大島由加里:

維基百科:有作品年表,連片中的角色定位都有(要把她後期拍的B級C級片全看過也不容易)。
香港女動作影星回顧:大島由加利

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在進入歡樂的劇情之前,有件讓我小小吃驚的事:《靈幻童子》在1988年的台灣上映時,竟是限制級上映,須知1988年電檢尺度已略有放寬,「輔導級」亦已經上路(相關文),但這麼一部看似主打兒童市場的電影,竟仍乖乖的以限級上映。話說回來,當年八歲的我照樣在二輪電影院看個飽,不只我,我記得當時我很多鄰居同學都看過(畢竟當時的林小樓是兒童界的巨星啊),上有政策,但坊間自己會變通就是。



由於這是主打兒童市場的限制級電影,壞人一定要壞的簡單明瞭,開頭就看他對自己師兄弟父女趕盡殺絕,還把兩人收到葫蘆裡要帶回去採補,最重要的是一定要在明明沒人的場景下,很有氣勢的自言自語接下來打算做的壞事,然後哈哈哈哈哈的大笑一番。




接著壞人把一塊令牌丟給殭屍手下,要殭屍去殺師兄弟另一個女兒,令牌的造型讓我想到國中時喜歡去的禮品店。




殭屍這段其實很雞肋,沒辦法這本來就是為了賣埠多加的,原來殭屍爸爸是個單親爸爸,獨自扶養兩隻可愛的小殭屍,是說小殭屍還拿著奶瓶是怎樣...



大島由加里是女主角(林小樓則是男主角XD),這是少數她以美女路線登場的電影(小殭屍還對她說阿姨妳好漂亮),她就是壞人要追殺的對象。



美女歸美女,打起架來是完全不含糊的,對付殭屍不用靈符或黑狗血,直接用踢的。



殭屍的戲份到此為止,這段刪掉其實沒差。



林小樓出場,旁邊還有哼哈二將的搞笑人物,林小樓和爺爺汪強在道觀廚房打雜,爺爺其實也是修道者,而道觀掌門其實就是隱藏身份的壞人。



很快的,林小樓三人認識了大島,還一起打架成了朋友,同時知道大島正在尋找父親和妹妹。(這個退場動作XD)




壞人在道觀後山那可愛的基地裡,修練邪惡的沾壽大法,而大島可憐的父親和妹妹不僅被害死,還被放進罈子裡,每晚被吸取元神,我對於罈子有異樣的感受,這個畫面記的特別清楚。



而大島夜探後山被打傷,受了傷就要擦藥啦,相信導演是想製造一點曖昧的感覺,不過林小樓看起來太純良,反串起來太像小男生,兩人甚至像阿姨 VS 小弟,完全沒有男女情愫的感覺。



這種片的情節真是沒什麼好講得太詳細,總之林小樓一行五人發現壞人的陰謀,正式和壞人對抗,有些畫面當時只是搞個笑,並沒有打算往太低級的方向去,但現在心術不正的我看起來就蠻啼笑皆非的,該不會是因為這種場面被評為限制級的吧。(誤)



最後的大戰風格很雜匯,武打加茅山術,連動畫都出來了,原來壞人練了半天的什麼大法,是把自己變成一沱捲曲的青色物體,結果...



大島首先戰死,最後一向搞笑的小兵使出感動的自殺式攻擊,和壞人同歸於盡,全部死光光只剩林小樓和爺爺,這類電影很少有這麼悲壯(?)的結局的說。

張貼者: suling 下午11:00
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